諏訪形には「筆塚」はないのか?
−素人イナガキの個人的な思い入れによる、単なる「推測記事」です−


 よく知られているとおり、「筆塚」は寺子屋の師匠など地域の文化活動を担った 人の供養や、使い古しの筆の供養のために作られる塚です。あちこちに数多く見る ことができ、いわば、「地域文化の象徴」ともなっているものです。諏訪形の近く の地区でも、小牧や須川、御所などに立派な「筆塚」があります。詳しくは『諏 訪形誌』281ページをご覧下さい。

須川の筆塚
小牧の筆塚
御所の筆塚


 しかし、なぜか諏訪形には「筆塚」が見当たらないのです。『諏訪形誌』75ページ からにも述べられているとおり、諏訪形にも寺子屋などがあったのですから、「筆塚」 もあっても良さそうだ、とは思いませんか?

 そこで、ちょっと思い当たることがあります。「カンカン石」のすぐ北隣、旧別所街道 沿いに墓地があり、ちょっとわかりにくいですが、旧街道の傍らには、左の写真のような 「馬頭観音」も安置されています。この墓地の一番東側に、「墓石」ではないと思われる 石碑(右の写真)があります。この場所は「旧若宮学校」からも近く、「筆塚」を設ける には適した場所のようにも思えます。ちょっと思い入れが強すぎるでしょうか(学術的な 見方ではないです)?


 この石碑の表面(西向き)上部には、2つのかなり大きな文字が横並びに刻まれています。 そのうち、左側の文字は「冢」のようです。これは「塚」と同じ意味の文字とのことです。 もうひとつ、右側の文字は「にんべん(と思われる)」が読みとれるのですが、摩耗してい てどのような文字なのか、はっきりとはわかりません。

 この「右側のはっきりとは読めない一文字」は「供」のようにも見えます。もし「供養冢」 と彫られているのなら「供養する縁者がいない墓」と見るのが一般的です。しかし、石碑の 上部に「冢」の文字と並べて大きく彫られていることから、文字の配置から見て「供養塚」 の文字が彫られていたと考えるのは不自然であるように思います。「供塚」という言葉は辞書 的には見つからない語ですが、人、あるいは筆を「供養」するための塚に彫られた文字である ならば、それはそれでうなずけるような気もします。

 窪田諏訪形誌刊行副委員長の「併」の可能性があるのではないか、との仮説もあります。 「併冢」も辞書にある言葉ではないようですが、「陪冢」と同義語と考えるなら、墓地にある ことはむしろ自然で、この場合には「筆塚説」には無理があるという結論になります。

 北沢伴康諏訪形誌刊行委員長の調査によると、「東北信地域で、筆塚が墓地内に設置されて いるという例はない」とのことです。また、筆塚は江戸時代終わりころ以降に建立されたもの がほとんどのため、文字が読み取れないほどに表面が摩耗していることも不自然、との指摘も あります。

 以上のようなことから、全くの推測にすぎないのですが、この「??な石碑」が「筆塚」だっ たら、「諏訪形には筆塚はないのか」という疑問の答えになるわけですが、???な部分も多い ようです。どなたか専門家の方、調べていただけませんか?
 



歩けば…
それぞれの「筆塚」への行き方は
「諏訪形誌を歩く(web版・DVD版)」の以下の ページをご覧ください。


・須川の筆塚…須川地区散策(三夜堂に隣接)

・小牧の筆塚…小牧地区を歩く(大福寺門前)

・御所の筆塚…諏訪形の教育関連施設(「亮功学校跡」の東、住宅の敷地内)

・??な石碑…掲載はありませんが、「カンカン石」のすぐ北隣です